古川板金では、独自の軒先から落雪を防止する製品を開発しています。
特徴はスリット調で、屋根材と同材を使用していて、屋根と同色にできます。きれいです。
1年目の広島支店
入社してすぐに、配属なったのが広島県でした。新幹線の広島駅のホームには広島支店のH主任とFさんが待っていてくれました。私を待っている人が、来たことのない広島にいるなんて、とても、とても、感激しました。でも、緊張のあまりそれを言葉として表せませんでした。私が来たころから、広島支店は売上が好調になり、当時6年後に始まるアジア大会へむけての施設作りで公共工事系が目白押しになり、自動車メーカーのマツダは防府に新工場を計画、実行に入り、そこに下請けの工場も次から次へと動き始めていました。なにより、いわゆる“バブル”に入り始めになっていました。
2ヶ月ほど、営業に配属になっていましたが、やがて工事が多くなり、工事課の人間が足りなくなってきて、新人はほどなく工事課に配置換えになりました。経験したことのない工事現場で、工事管理を任されてしまいました。もちろん何もわからないといっても過言ではありません。工事主任は「大丈夫だ。何かあったら連絡しろ。殺されることはない。行って来い!」と投げ出されました。連絡しろと言っても当時、ポケベルを持たされましたが、工事現場の近くには公衆電話はなく、ポケベルが鳴れば自動車で20分ぐらい走って電話ボックスに駆け込むか、現場事務所で、電話を借りるかでした。
現場事務所から、電話すると、主任は「いいか、ハイ。とだけ言え。」と言われ、従いました。目の前に元請けの監督がいるので、変なことは言えないのです。
広島支店のある加古町まで、帰ると深夜でした。自動車を運転して帰っている途中何回か、目から涙が止まらなくなり、ハンドルが握れなくなりました。俺は何をしているのだろうと自問自答しながら、翌朝ロボットのように現場に向かい朝礼をしていたのを、思い出します。協力業者も元請けも容赦ない行為で、くたくた、でした。
町屋の加工会社に注文したものを取りに行くと社長が出てきて(社長一人だけの会社ですが。)いつも、温かい言葉をかけてくれました。被爆者でした。奥さんはいつも、お茶を持ってきてくれました。ボロボロの建屋でしたが、とてもあったかい気持ちになり落ち着く場所でした。
スキー場開発の現場で、とうとう日曜日の夜7時に営業と二人呼び出され、現場の半場で、二時間正座したまま、説教を受ける羽目になりました。説教した、K所長は70過ぎに見えましたが、今思えば、サラリーマンだから50歳台なのだろうと思います。
20歳前半の若僧二人にあそこまで真剣に説教してもらい、今は感謝しています。
只、内容は途中から足の痛みで当時も覚えていませんでしたが、いまは、まったく忘れてしまいました。そのあと30分ぐらい横になっていた記憶だけはあります。